蓬春作品の変遷-2
3.南方に使いする
昭和13年以来、蓬春は美術展の審査員として毎年のように台湾や中国、南方の各地に赴いた。初めて目にする異国風景は蓬春にとって新たな創作力の源となった。
《南嶋薄暮》を取材した淡水(台湾の海港)について、「その建築の持つ絵画的な美しさは、西欧のそれも南仏か伊太利あたりの感じがあるのではないでしょうか。」と蓬春は述べており、南方の各地に見られる鮮やかな色彩に、殊に感銘を受けていたようだ。
一方、昭和10年代初頭の古典の学習以来、フォルムの単純化を一例とした画風の変化を見せていた蓬春が、戦後「蓬春モダニズム」と呼ばれるところの造形形成の過程を《残寒 》に見いだすことができる。省略や強調の手法を交えた、装飾的な画面は、終戦の到来を待てなかったようだ。
この頃、多くの画家が戦争に協力するよう求められていた。昭和17年、陸軍省から南方に派遣され、戦争画を描くことになるが、実際のところ、彼が心に抱いていたのは「今だ見ざる南方の新天地に対する思慕の念と憧憬」であった。
《南嶋薄暮》 《九龍碼頭》
《南嶋薄暮》 昭和15(1940)年 《九龍碼頭》 昭和17(1942)年
《瑞鶴》 《残寒》 《北京風景》素描
《北京風景》素描 昭和18(1943)年
《残寒》 昭和17(1942)年
《瑞鶴》 昭和18(1943)年
4.蓬春モダニズムの展開
昭和22年、蓬春は疎開先の山形・赤湯から帰り、葉山に移る。さらに、1年半後には現在の記念館となっている一色海岸近くに待望の新居を構えることになる。ちなみにこの画室は28年に同窓の建築家吉田五十八が設計したモダンな内装である。海に近いこの画室から夏の葉山の海岸を思わせるモチーフがたびたび登場することになる。
戦後の発表の舞台は日展が中心となり、第3回日展に出品した《山湖》が始まりであった。昭和20年代、日本画滅亡論が唱えられるころ、日本画は急速に西欧近代絵画を吸収する。そのなかで、蓬春は19世紀の以後のフランスを中心とした絵画に接近し、戦時の表現を払拭した新しい日本画を積極的にめざし、時代の思考や感覚をもとに近代の造形性を消化してゆく。漫然とした概念的な自然描写を排した表現や「もっと明るく、もっと複雑な、もっと強い、もっとリズミカルな」と言う蓬春の色感は、新鮮な画面を生み出している。
独特の造形感覚とともに、《望郷》にみられるようなしばしば卓抜した完成は、蓬春芸術のみせる大きな魅力でもある。こうした蓬春の作品は発表のたびに話題となり、明るく近代的な造形の追求は、“蓬春モダニズム”とよばれる世界を創り出した。
《夏の印象》 《夏の印象》下図
《山湖》
《夏の印象》、《夏の印象》下図 昭和25(1950)年
《山湖》 昭和22(1947)年
《都波喜》 《卓上》 《望郷》
都波喜》 昭和26(1951)
《卓上》 昭和27(1952)年
《望郷》 昭和28(1953)年